ギタリスト、音楽講師、ゲーム音楽クリエイター、そしてYouTuber――。STUDIO KENTこと中原健太郎さんは、さまざまな肩書きを持ちながら活動を続けている。
近年は、レトロゲーム音楽をコスプレ姿で演奏する動画で注目を集めているが、その原点はゲーム&ウオッチやファミコンに熱中した少年時代にまでさかのぼる。BOØWYとの出会いをきっかけにギターを手にし、大学では軽音楽に没頭。その後はプロギタリストとして活動する一方で、着メロ制作や音楽講師としても活躍し、『NAMCO×CAPCOM』や『ONE PIECE アンリミテッドクルーズ』シリーズなどのゲーム関連作品にも携わってきた。
今回は、中原さんに2時間ほどインタビューを実施。幼少期のゲーム体験から音楽との出会い、プロ活動、ゲーム音楽制作の裏側、そしてYouTubeを通じて再びゲーム業界との接点を広げる現在まで、その歩みを時系列に沿って振り返っていただいた。
おばあちゃんに付いていった喫茶店がゲームとの出会いに
――まず、STUDIO KENTさんのプロフィールを教えてもらっていいですか?
生年月日は1974年4月2日で、現在52歳でございます。出身は大阪です。上新庄という街があるんですけど、そこで生まれて30歳までずっとそこに住んでいましたね。
――あっ、そうなんですか。
僕の初めてのゲームの体験は、当時喫茶店に置いてあったゲームでした。実家は食堂をやっており、両親は共働きで朝から晩までずっと仕事だったので、そうした場所に連れて行ってくれるのがおばあちゃんだったんですよね。僕はそこでゲームするのが目的だったので、喜んでついて行ったんですけど。おばあちゃんがお小遣いをくれて、ゲームも一杯できたので(笑)。
そこで多分最初に遊んだゲームが『フロッガー』です。あと、世界初の横スクロールシューティングゲームの『ディフェンダー』とかもあったんですよ。そこで「テレビゲームはなんて面白いんだ!」となってゲーム&ウオッチの『ボール』を親に買ってもらい、そこからもうゲーム一直線です。それが小学校3年の頃ですね。

ファミコンが発売するまでは、ゲーム&ウオッチに夢中でいっぱい持っていましたね。先ほども話したとおり、親が共働きだったので、毎日学校から帰ってくるとずっとひとりだったんですよね。兄弟はいましたが、姉は11歳離れていたし、兄も9歳離れていたので、あまり家にいなかったんです。
学校って15時か16時ぐらいに終わって帰ってくるじゃないですか。その後は、友達が遊びに来るか、ずっとひとりだったので、うちの親はゲームに寛容で結構買ってもらいました。その辺はすごくラッキーで、ゲームがあったから寂しくなかったという感じでしたね。
そんな感じでゲームたくさん買ってもらえていたので、『ボール』や『ジャッジ』、『ファイア』などゲーム&ウオッチもかなり持っていました。
――『ファイア』はいいですね~!
『ドンキーコング』のマルチスクリーンのやつとか、『オクトパス』とかもありました。たいてい最後は踏んづけちゃって、液晶が真っ黒になって終わっちゃうという(笑)。家にあったやつは、どこかが黒くなっていたり、まともなものはあまり存在してなかったんですね。そんな小学校時代を送り、たしかファミコンが出てすぐには買ってもらえなかったのかな?
あ、それと兄がFM-7をその頃に中古で買ったのでFM-7のゲームもやるようになりました。当時はまだデータレコーダーでピーピーギャーギャーって音を聞いてからゲームする感じでしたけど(笑)。マイコンBASICマガジンを買って掲載されているプログラムを自分で打ち込んだりしてましたね。syntax errorに怯えながら(笑)。
――ファミコンが出た時は、いくつの時でしたか?
僕が小学校3年生の時にファミコンが発売しているんですよね。発売から1年後ぐらいのときだから、たぶん買ってもらったのは4年生だったと思います。その当時、まだクラスでファミコン持っているやつがひとりかふたりいるぐらいでした。また四角ボタンでしたね。さすがにケーブルはグレーじゃなかったんですけど(笑)。僕より前に買っていた友達はグレーで、それで馬鹿にされていたりしましたね。
そんなファミコンとの出会いを果たして、そこからもう完全なるゲーム少年です。それまで僕は、少年野球をやったりしたんですが。
――スポーツ少年だったんですか?
どちらかというとそうでしたね。少年野球もやっていたし、親の意向でスイミングスクールと体操スクールとか入れられて、週の半分以上は体を動かす感じでした。
――ピアノとか音楽系じゃなかったんですね。
その時は音楽もやってなかったんですよ。楽器ももちろん弾けなかったんです。ファミコンに出会ってから野球も辞めたし、スイミングスクールも親に嘘ついて行かなくなりました。「行ってきます!」といって、友達の家に行ってゲームやって。家に帰るときに、「あっ、水着濡らしとかなきゃ」といって、水着に水かけて工作までしていました。
余談ですけど、その後スイミングスクールをサボっていたのがバレたんですよ。親にめちゃくちゃ怒られたんですけど、なんでバレたのかというと……水着も濡らしてバッチリ完全犯罪だと思っていたのですが、水泳に行くと目が充血するじゃないですか。その工作を忘れていたせいだと思ったら、全然そんなことなくて。普通にスイミングスクールから電話かかってきてたんですよ。
「おたくの健太郎さん、最近全然来てないですけど大丈夫ですか?」って。それでうちの母親にバレて、こっぴどく怒られましたね。
――それで、スイミングスクールは辞めちゃったんですか?
自分では覚えませんが、小学1年生の時に僕がやりたいっていったらしいんですよね。親が「だからあんたが行くっていったから通わしたんやから、絶対に小6まで行きなさい」といわれて。仕方ないから、その後は渋々と行っていました。そんな感じで完全にファミコン少年になりました。

学級新聞のためにメディアにも掲載されていないゲーム情報をメーカーに直撃!
小学校で「なんとか係」ってあるじゃないですか。
――“いきもの係”的なやつですね。
僕は新聞係だったんですよ。学級新聞を作るという。普通に手書きで書いたものを藁半紙に刷って作っていました。僕が原稿を書いたのは真っ白の紙です。そこに鉛筆で書いてそれを先生に渡していました。テスト用紙を作るのと同じ要領で先生が刷ってくれて、クラスの人数分毎月1回発行するという。それを6年生のときにやっていたんです。
――メディア活動ですね!
その時はだから、もう自分の趣味が全開で。新聞係は3人いましたが、全員がファミコン好きで、僕の親友だったんですよ。友達同士で「俺ら新聞係やろうぜ」って立候補しました。それが、半分ぐらいファミコンの記事なんですよ(笑)。
そのファミコンの記事書くときに、当時から凝り性だったことに加えて、ちょっと大人びた活動に憧れるじゃないですか。あの当時ゲーム雑誌って、普通にゲームメーカーの電話番号が書いてあったんですよ。それを見て電話していたんです。
――え? メーカーに!?
当然相手にされなかったんですが、唯一、ジャレコさんだけ相手にしてくれたんです。もちろん、「◯◯小学校の中原というものなんですけど」と挨拶したんですが、相手が小学生と分かった瞬間、普通のメーカーはわりと塩対応というか、まともに対応してくれませんでした。
でも、ジャレコさんだけは親身になって大人と同じ扱いをしてくださったんです。そこで、何の目的で電話したのかというと、「雑誌にも載ってない新ゲーム情報」だったんです。雑誌ってだいたい、発売予定タイトルが書いてあるじゃないですか。それで、雑誌よりも早く情報をつかみたいと思って直撃して……まぁ、断られますよね普通は。でも、ジャレコさんだけはタイトルは教えてもらえませんでしたが、「こんな感じのゲームというヒントを与えておきますね」って。
――ジャレコさん、めっちゃ優しい!
多分そのときのゲームが、『ミシシッピー殺人事件』だったんです(笑)。僕の中で『ミシシッピー』は思い出のゲームなので、クソゲーじゃないんですよね。
ちなみにその学級新聞で、毎月抽選コーナー懸賞コーナーがあったんですよね。それで、プレゼントを何にしたかというと、当時『マイコンBASICマガジン』で流行っていたペーパーアドベンチャーというのがあったんです。わかります?
――アドベンチャーブック的なやつですか?
それのもっと小っちゃいヤツです。たとえば、A3一枚で収まるぐらいのミニアドベンチャーブックみたいなものが毎月載っていたんですね。それが大好きで、それを模したものを自分で作ってプレゼントしていました。とにかくゲームが大好きすぎて、自分は絶対ゲーム業界に入りたいと思っていました。
高橋名人も大人気でしたが、プレイする方よりもゲームを開発したいとその時から思っていました。その当時、自由ノートにゲームの企画書みたいなのを書いていました。さすがに、それはもうなくなっちゃったんですけどね。自分が就職できる年齢になったときのために、アイディアを書き溜めておいて、ゲームメーカーに持って行って売り込もうと本気で思っていました。そんな小学校時代でした。高学年の時はゲーム一色、ゲーム以外何もしない子供でしたね。
ガチヤンキーの友達のアニキが持っていたギターがきっかけでBOØWYにハマる
――中学生になってからは部活とかに入ったんですか?
入りました。めちゃくちゃオタクだったんですよ、小学校のときが。オタクすぎて、ちょっと青春味が足りないなと思いまして。それまでずっとスポーツ少年だったので、体がなまっちゃうとさすがにまずいかなと思って中学の時はバレーボール部に入りました。
昔も背が高かったので、中2の先輩から「お前背高いからバレーボール部入ってよ」みたいに、スカウトされたんです。なんか、その先輩が結構強面だったので断れなかったというのも、正直あります(笑)。
でもやっぱりゲームが好きだったので、結局両立ができなくて。バレーボール部の方は、1年生の秋ぐらいにはやめちゃっていましたね。あと、当時は今では許されないような体罰がひどかったんですよ。バレー部の顧問も超体罰教師だったので、みんなバットで殴られてアザができていて、それが原因だったかな? 最終的に青あざが親に見つかったんです。
「あんた、これどうしたん?」っていわれて、先生にバットで殴られたことを話したら、「そんなとこやめなさい」といわれて、やめました。その後はまたゲームに戻るんですが……ここでやっと僕の音楽との接点が始まります。
――ほう、中学生で。
楽器を始める前まではゲームの音楽は好きだったので、ゲームのサントラはレンタルレコード屋で借りていました。あとは『Beep』という雑誌にソノシートが付いていたので、そちらも買いました。聴いていたのはゲーム音楽が多かったですね。
――音楽に目覚めたきっかけは、どちらかというとゲーム音楽だったんですか?
自宅のミニコンポで音楽を聴くときは、ゲーム音楽が多かったですね。小学校のときにゲーム好きだったこともあって、当時は『スーパーマリオブラザーズ』や『ファンタジーゾーン』、『グラディウス』とかのサントラもあったので、それをカセットにダビングしてずっと聴くっていう感じでした。なので、割と聴くのはゲーム音楽が多かったですね。
――当時一番好きだったゲーム音楽は何でしたか?
『ファンタジーゾーン』です。そのために、ソノシートが付いた『Beep』を買いました(笑)。そんな感じで楽器はまだやってなかったけど、ただゲーム音楽が好きっていう状態でした。ちなみに僕が住んでいたとこって、結構ガラが悪かったんですよ。
――そうなんですか?
大阪の上新庄という地域は、当時ヤンキーが多いことで知られていました。中学では窓ガラスが割られたり、昼休みに卒業生がバイクでやって来たりと、なかなか荒っぽい雰囲気だったんです。
小学校時代の仲の良い友達とはクラスが別になってしまったこともあり、中学では少しやんちゃな友達とつるむことが増えました。とはいえ、ガチのヤンキーというほどではなく、ちょいワルくらいの感じでしたね。
そんな友達の家に遊びに行った中学3年の夏休み前、部屋に置かれていたのが友達の兄のエレキギターでした。お兄さんは本物のヤンキーだったんですが(笑)、「弾いていいで」と言われたので、「怒られへんのかな?」と思いながら触らせてもらったんです。
そのときに簡単な弾き方とTAB譜の読み方を教えてもらいました。たまたま置いてあったのがBOØWYのバンドスコアで、それがBOØWYとの最初の出会いでした。当時の僕は、まだBOØWYのことをまったく知らなかったんですけどね。
――中学3年の時がBOØWYなんですね!
BOØWYはもう解散した後だったと思います。しかもさっきも言った通り、ゲーム音楽ばかり聞いていたので、あまり流行っている音楽は知らなかったんですよ。
そこでギターを教えてもらい、「このBOØWYっていうバンド、すごくいいよね」って話になってから初めてBOØWYを知って、そこからゲーム音楽以外の音楽をたくさん聴くようになりました。というか、僕は何かにのめり込むと極端なので、ギターがめちゃくちゃ面白いって分かった瞬間ハマリました。
中3だから受験があるんですが、親に「ギター買ってくれたら受験勉強するよ」って言って脅して買ってもらいました(笑)。それで、初めに買ったのは姉の大学の同級生が持っていたギターを中古で売ってもらったんですよね。
――なるほど。それはどこのギターだったんですか?
Tokaiのストラトです。しかも最初からフロイド・ローズでした(笑)。
――じゃ、チューニングを合わせるのが大変でしたね!
その大学の同級生のお兄ちゃんが一度自宅に来てくれて、いろいろ教えてくれました。あと、アンプとBOSSのOD-2(オーバードライブ)だけ貸してくれて。でも、「これはあげられないから、ちょっと使ったら返してね」っていわれたので、OD-2だけは返したんですけど。そこで、自分のギターを手にしたので、BOØWYのコピーばかりしまくりました。
あとは、当時『BANDやろうぜ』や『月刊ギグス』といった雑誌があったので、それを買っていました。だから、僕はTAB譜から入った人ですね。TAB譜を見て、その当時の日本のロックをコピーしまくってハマっちゃったので、逆に、そこからゲームから離れちゃったんですよね。ゲーム自体からも離れたし、ゲーム音楽も聴かなくなってしまって。
――ゲームをあんまりやらなくなった時期があったってことですね。
受験勉強もあったし(笑)。さすがに、ギターやって勉強して、ゲームというのは無理だったので、必然的にゲームに割く時間がなくなりました。ギターに夢中になっていた時期が、中3から高校3年までずっとバンドをしていたので。

ガンズをきっかけにハードロックに目覚める
――バンドは高校に入ってから作ったんですか?
僕はギター買った瞬間に、よくあるパターンですが、クラスの仲良い友達に……。
――「お前ベースな」とか(笑)。
そうそうそう(笑)。典型的なそれで、みんな初心者ですよ。でも、歌がなかなか決まらなくて。歌って、誰が上手いかわからないじゃないですか。音楽の授業とかみんな歌わないし、誰が上手いかわからないので、とりあえず仲良かった奴に「お前ちょっと歌やってよ」とかいって、やらせていました。
――それはBOØWYのコピーバンドだったんですか?
最初はBOØWYとかJUN SKY WALKER(S)とか、そういうのをやっていましたね。中3の夏休みにギター買ってもらってすぐにバンドを組んで、中3の卒業式の時に学校で演奏しました。それが初ライブでしたね。その時組んだメンバーは高校がみんなバラバラだったのですが続いていて、近所だから集まりやすかったんです。
運良く、ベースやっていた友達が、地元では地主の家の息子で、大きな敷地を持っていて離れがあったんですね。
――そこで練習できたってことですか?
そうなんですよ。
――じゃ、スタジオ代もいらないと。
そう、だから僕の高校時代は、学校が終わったらクラブもやらずにまっすぐ家帰ってきて、ベーシストの友達の家に集まるっていう。各自それぞれ高校終わったらそこに集まってくんですよね。
――高校の軽音部でバンドやっていたのとは、ちょっと違うんですね。
ギターアンプも繋いで音が出せるし、ドラムもみんなでお金出して買ったんですよ。安いやつですけどね。僕が一番乗りだったら勝手にドラムを叩いて練習するなど、いろんな楽器をそこで練習できましたね。
高校3年間はバンド三昧。中学生のときのメンバーとずっとコピーバンドをして、それと並行して高校の学祭では高校のメンバーしか出られないので、それ用のバンドを作っていました。
その高校のバンドは、主にガンズ・アンド・ローゼズ、MR. BIG、エクストリーム、オジー・オズボーンとか。その時に洋楽にハマりました。結構僕、割と流されやすかったので(笑)。BOØWYを教えてもらったときはBOØWYばかり聴いていたし、高校になって友達から「今時BOØWYとか聴いているの?」とかいわれて。
――当時はメタルからBOØWYに行くってパターンは結構多かったですが、その逆なんですね。
友人にギターがめちゃくちゃ上手いやつがひとりいたんですよ。そいつがレスポールを持っていて、「今はスラッシュだよね」なんて話をしていて。
でも僕は「スラッシュって何?」というレベルだったんです(笑)。すると、「ガンズ・アンド・ローゼズ知らねーの?」と言われて、「じゃあ聴いてみるわ」となったのが、ガンズとの出会いでした。
――その時点でガンズはどういう扱いだったんですか?
ガンズは知らなかったんですよ。洋楽もビートルズとかビリー・ジョエルとか、ライトな感じのものしか知らなかったので、ハードロックはほとんど聴いてなかったんですよね。
――その友人の影響でハードロックに目覚めたんですね。
最初は、ガンズでしたね。でも、ガンズもデビューしてから結構経っていたので、ガンズも古いじゃんという感じだったんですけど(笑)。
そこから、MR. BIG、エクストリームに行ったわけです。高校3年間は本当に洋楽のハードロックばっかりやっていました。だから、ゲームは数えるほどしかやってないんです。
PCエンジンを買ってスネ夫のようになる!?
ちなみに、ファミコンの次に買ったのがPCエンジンだったんですよ。
――まあ順当な流れですね。
僕が買ったのは、中1の10月だったと思います。
――それって発売日あたりですか? 当時は、なかなかPCエンジンの本体が買えなかったんですよね。売り切れていて。
当時めちゃくちゃ懇意にしているおもちゃ屋があって。僕の友達のおじさんがやっているおもちゃ屋なんですが、そのコネルートで手に入れました(笑)。お年玉を使わずに貯めておいたんですが、発売日に買えたんですよ。本当は『THE 功夫』が欲しかったんですが、発売が延期されちゃって。
――『THE 功夫』ってローンチタイトルでしたっけ?
ローンチの予定だったんだけど、結局発売が間に合わなくて、ローンチの『ビックリマンワールド』を最初に買うことになったんですよ。後に『THE 功夫』も買って、「でっかいキャラが動いている!」って感動しました!
――ファミコンと比べるとかなりでかく感じましたからね。
そうです。音楽もクオリティ高いし。そこから僕は、ファミコンを全くやらなくなって。あの当時、僕ぐらいしかPCエンジンを持ってなかったので、もうスネ夫みたいになっちゃって。「うちに来い!PCエンジンやらしたるから!」みたいにみんなに自慢して(笑)。
本当に、ゲームセンターのゲームが家でできるというのが、当時はすごかったですね。ゲーム遍歴としては、こんな感じです。中2の終わりくらいに、CD-ROM2が出たんです。でもCD-ROM2はさすがに高くて、すぐには買えませんでした。買えたのは中3から高1ぐらいの頃だったと思います。

――じゃあ、『No・Ri・Ko』は買わなかったんですか?
よく聞いてくれました!当時は小川範子が大好きだったので『No・Ri・Ko』は買いました。(笑)。そんな感じで、高校のときはCD-ROM2のゲームをちょいちょいやるくらいでした。『天外魔境』のような有名なゲームはやりましたが『イースI・II』は買わなかったんですよ。あれは本当に今後悔しています。
――確かに当時PCを持ってなければ、『イースI・II』は良かったと思いますね。
アレンジされた音楽もありましたね。後で聴きましたが、めちゃめちゃ良かったです。『イースI・II』の頃は、もしかしたら受験勉強の時期と被ってのかも……。
――若干ゲームをやらない時期とクロスしちゃっていたんですね。
ギターに夢中になったし、受験勉強もしなきゃいけないみたいな感じで買えなかったんですよね。中3から高校のときは僕のゲーマー暗黒時代だったけど、逆に言うと、ギター小僧時代というかね。もう音楽ばっかりやっていました。
大学に入り憧れの軽音デビュー!
そのままの流れで、大阪の関西大学に入りました。僕は高校のときに、「絶対自分はプロのギタリストになる」って思っていたんですね。ただ、音大に入るのはピアノが弾けないから。
――ハードルがちょっと高いです。
ハードルも高いし、「ロックに音大っていらねえだろ」みたいな、ちょっと尖ったバリバリのロッカーだったんです。
――専門学校に行こうとは思いませんでしたか?
親が大学に行かないと駄目みたいな。専門学校が悪いわけじゃないんですけど、「大学は行きなさい」と。そこでまた交換条件を出して、「大学行くからギター買ってくれる?」みたいな(笑)。
――何のギターを買ってもらったんですか?
トム・アンダーソンって知ってます?
――100万円ぐらいするギターでしたっけ?
いや、当時は今と比べるとずいぶん安かったです。安いと言っても40万円強くらいだったんですけどね。今買うと100万円とかしますけどね。
――当時はギブソンもそんなに高くはなかったですからね。
それで当時19歳でしたけど、分不相応でしたけどトム・アンダーソンを入学祝いに買ってもらいました。
それまでも、実は高校生の間もギターは何本か買ったんですよね。例えばMUSICMAN Silhouetteっていう、キース・リチャーズ使用のギターとしても有名ですが、布袋さんのインタビューの記事の所有ギターの中にそのギターが載ってたんですよ。
G柄ギターだとミーハーすぎるけど、これだったらいいかなと思って(笑)。高校の時にMUSICMANで演奏しているライブ映像が、残っていると思います。
――え? ライブ映像が残っているんですか?
そうなんですよ。8ミリビデオが家にあったので、毎回ライブの様子は撮っていました。自分のプライベートのYouTubeに、全部デジタル化して残しています。8ミリで撮ったものを一旦VHSにダビングして、上京する際に持っていけなかったので、キャプチャーボードを購入して全てデジタルデータ化しました。
それをYouTubeのサブアカウントに全部アップしています。もちろん公開はしていませんけどね。
――貴重ですね。そういう昔の映像って。
僕の当時のライブ映像は、ほとんど残っていますね。関西大学を選んだのは、軽音楽部が優秀という話を聞いたからです。大阪の学校で、軽音楽部からプロになっている人が多いところを調べたら、関西大学と関西学院が自分の学力に見合った大学でした。それ以上になると、神戸大学とかなので僕の学力では到底いけません。
――バンドでデビューされている方が多かったって感じなんですかね?
バンドよりも個人なんですよ。スタジオミュージシャンとかですね。
――なるほど。バンドでアーティストになりたいというよりも、ギターを職業にしたかったということですね!
そうなんですよ。ギターであれば何でもよかったんです。関西大学は、僕の家から近かったので行きました。高校のときに軽音部がなかったので、大学の軽音部に入るのは念願だったんですよ。
――初軽音!
学校にいてもギターが弾けるっていう状況じゃないですか。それはもう夢のような環境でしたね。大学に入った理由が軽音に入ることだったので、軽音の活動にほとんど時間を費やしました。
――ちなみに、軽音部の活動ってどんなことをするんですか?
僕たちの軽音というのは、割と人数が多かったんです。1年生から4年生の全部員が100人以上いたんですよね。
――ええっ、そんなに!
そうなんですよ。しかも僕の学年が一番人数が多くて、40人くらいいたんですね。
――それぞれでバンドを作るんですか?
そうなんです。部員たちの間でバンドを組んで。もちろん軽音部専用のスタジオが備え付けであります。
――スタジオは1部屋しかなくて、時間割ですか?
そうです。週ごとに練習枠があって、それぞれのバンドに割り振られるんです。枠がないとバンド組んでもそこに入れません。
――週に何回入れるんですか?
週1回しか入れなかったので、掛け持ちする人が多かったですね。同じ軽音部内でも、例えばギタリストは多いけど、ドラマーが少なかったんですか。ベーシストが一番少なかったかな? なので、ベースの人は3バンドぐらい掛け持ちとかしていましたね。
ギタリストはたくさんいたので、掛け持ちでいくつものバンドに入るようなことはなかなかできませんでした。そういえば軽音部に入ったばかりでまだバンドを組んでいなかった頃、僕は部室でトム・アンダーソンのギターを弾いてたんです。すると、ギターが上手そうな先輩に「お前、何者なの? なんでそんな高級なギター持っているの?」と声を掛けられて。
部室で「何か弾いてみろよ」と言われたので、たしかオジー・オズボーンの「クレイジー・トレイン」を弾いたんですよ。
――ど定番ですね(笑)。
すると先輩に「トム・アンダーソン持っているのに、なんでオジーなんだ?!」と言われて(笑)。そこで「先輩は何を弾いているんですか?」と聞いたら、「俺はTOTOだよ。スティーヴ・ルカサー」と返ってきました。
その先輩は、僕がトム・アンダーソンを持っていたので、てっきり同じような系統の音楽をやっていると思って声を掛けたらしいんです。でも実際にはオジーを弾き始めたので、「なんでオジーなんだ?」という流れになったんですよ(笑)。
そのときはまだTOTOって知らなかったんです。「TOTOってなんですか? 便器ですか?」みたいな(笑)。ちなみに軽音部ではバンド名を決めることができるんですが、その先輩のバンドは「東陶」というTOTOのコピーバンドだったんです。
軽音部のスタジオは密閉空間ではなかったので、他のバンドの練習を自由に見学できるようになっていました。そこで「東陶」の練習を見にいったら、めちゃくちゃ上手くて。「これが大学のレベルか!」と思って、洗練された音楽に目覚めちゃったんですよ。
そこからAORやフュージョンに興味を持ちだしました。好みがガラッと一転して、スタジオミュージシャンのギターに興味を持つようになったんです。スティーヴ・ルカサーもですが、ラリー・カールトンとかリー・リトナーとか。日本の音楽も好きなスタジオミュージシャンが参加してるCDばかり聴いたりとか。
――日本のスタジオミュージシャンだとどなたになりますか?
鈴木茂さんとかわかりますか? ユーミンのギターをやっている人です。あとは、今剛さんとか。
――まあまあ、渋いラインですね。
当時軽音は、先輩から代々続く流れだと思いますが、ミーハーな音楽を排除したがっていたんです。
――ロキノン系とかではないんですね。
もっと古い音楽です。TOTOは新しいほうで、ソウルやモータウン、ジャニス・ジョップリンとかアレサ・フランクリンとか。そういった、渋い音楽が軽音部では好まれていました。
うちの軽音部は管楽器も入れたので、ビッグバンドがあったんですよ。だから、ビッグバンドコンテストとかにも出たりとかして。管楽器の人がたくさんいたので、ホーンセクションがあるバンドを組むことができたんです。
――ビッグバンドなんて、なかなか経験できませんからね。
ソウルやR&Bってホーンが入っているので、そういうのが主流でした。僕の世代だと小室哲也が流行っていたので、同級生の中にはそういうのをやりたくて入った人もいました。
――「EZ DO DANCE」だろ、と。
まさに「EZ DO DANCE」をやっているやつがいたんですよ。先輩からはすごく白い目で見られていて、「お前なんで軽音に入ってきたの?」みたいな。ヤマハのEOSに打ち込んだものを流して、キーボードと女の子のふたりだけでやっているバンドもありました。それでスタジオを取るじゃないですか。それも面白くなかったんだと思います。
先輩からは「こんなのバンドじゃねーだろ」みたいにボロカスにいわれていましたが、それでもやめずに続けていましたけどね。そんな時代でした。僕は結構流されやすいタイプなので、先輩たちの好んでいる玄人好みの音楽ばっかりやっていました。
――でもいい影響ですよね。
初めてそういう音楽に触れられたこともあり、ハードロックの土台もありつつスタジオミュージシャン系の知識も増えたので良かったと思います。当時僕がメインでやっていたバンドは、アシッドジャズのジャミロクワイやラリー・カールトン、リー・リトナーというフュージョンバンドでした。

サポートギタリストでプロデビューを果たすも2年で職を失う
――大学卒業後は就職されたんですか?
就職はしませんでした。高校のときからギタリストになるつもりで大学に入っているので、僕の就職活動って、要はギタリストになることだったんですよね。じゃあ、何をすればギタリストになれるんだろうと考えました。当時は大阪に住んでいましたが、深夜にローカル局の音楽番組が放送されていました。その音楽番組で、サポートギタリストを募集していたんです。
――そんなのがあったんですか?
その提供元がビーイングでした。
ビーイングの中に大阪拠点のインディーズレーベルがあり、そのレーベルが番組の中でサポートギタリストを募集していたんです。デモテープを送ってくださいと。そこで、これに応募しよう!と思いました。それが、大学生4年生の時です。
――それまでは、悶々とされていたんですか?
全然プロ活動なんかできなかったので、軽音部でバンドをやることしかできなくて。いつか軽音部から出て活動をしないといけないなと思っていましたが、ちょうどいい機会だと思って、それに応募しました。その時にゲイリー・ムーアの「スティル・ゴッド・ザ・ブルーズ」という、めちゃくちゃ泣きのギターの曲があるんですが、それをMTRでカセットテープに録音してデモテープを作りました。
打ち込みは高校の時からやっていたので伴奏は打ち込みでしたね。そしてテープを送ったらなんと合格したんですよ。テープ審査があって、その後セッション審査がありました。ブルースか何かのセッションさせられたんですが、それらも経て合格したので、そこで晴れてインディーズレーベル所属のサポートギタリストになることができ、事務所で抱えているアーティストのライブサポートをするようになりました。
ビーイングのインディーズのレーベルに所属していた森田ゆかさんというシンガーのサポートが、僕の初めてのプロ活動です。そこで初めてギャラをもらって演奏するというのを経験しました。そこから2年ぐらい、ZAINレコードというところでサポートしていたのですが、森田ゆかさん辞めることになっちゃったので、僕たちバックバンドもスパンと切られて。ほかのアーティストには別のバンドがいるので……。
――席がないんですね。
そのレーベルにいても、次にいつ別の仕事の話がくるかわかりません。そういう状況だったので、別に自分からやめたわけではありませんが、必然的に仕事の話はなくなりました。
その時はすでに大学を卒業していて、24歳ぐらいの頃でしたが、仕事もなくなってしまいました。でも、なんとかギタリストで食いつなぎたいと思い、今メインの仕事になっているヤマハ音楽教室の講師試験を受けました。
その当時、ギターを教えてくれている師匠がいたんですけど、「だったら、ヤマハの先生にとりあえずなっときゃいいんじゃない?」みたいな話になって。
――ベースとなる収入源があれば、ほかの活動もしやすくなりますからね。
その師匠はプロを教えるレッスンプロだったので、自分の生徒の中からヤマハ講師になっている人がいっぱいました。なので、いつ試験があるとか全部知っているんですよ。その師匠に次いつ試験あるからこれ受けたらと言われて、受けたらなんとか一発で合格できました。
筆記試験もあるし、もちろん実技試験も両方クリアしないといけません。面接で人柄も見られます。それでもなんとか合格できて、24歳の時にヤマハ講師の資格を取って、そこからヤマハ講師の仕事をやるようになりました。
着メロの仕事で耳コピが鍛えられた
ヤマハ講師になって、それが結構順調で生徒がめちゃくちゃ来てくれたんですよ。それだけで全然食える感じになっちゃって。僕の20代は、ほとんど講師活動だけでライブとかもほとんどしませんでした。それに加えて、25歳あたりで着メロブームが来ました。僕は打ち込みもできたので、着メロの依頼がいっぱい来たんですよ。着メロの仕事と講師の仕事で、寝る暇もないぐらい。休みなく働きました。
――着メロってどこかのサイト用に作っていたんですか?
サイトではなく、大元のやつですね。その時代は、大元のデータを管理している人がいて、ちょっとずつデータをいじくって、いろいろなサイト向けに作っていたんですよね。なので、大元の人の手駒として作っていました。
――着メロサイトも当時はいっぱいありましたからね。
僕はMIDIでしか打っていませんが、その大元の人がそのMIDIを元に機種ごとにコンバート作業や微妙に変えたりしていたみたいですけどね。
――着メロはMIDIのときのみですか? 例えばその後に着うたみたいなものも出てきましたが、生のギターで収録をしていたとか。
途中から生録になったので、完コピものもやっていましたね。今はYouTubeでゲーム音楽を耳コピしていますけど、僕の耳コピ能力はその時にかなり鍛えられました。
――基本耳コピですからね。
なにせ、こちらに届く元の音源がCDとかじゃないんです。ラジオとかで流された発売前の音源とかが来るんです。音源も汚かったので、想像しながらやっていました。
――私は着メロ作成を依頼する側の仕事をしていましたが、テレビから録音したジングルとか作ってもらっていました(笑)。
でしょ? だから来る音源が音質悪くって(笑)。最初は昔の曲をCD音源から耳コピして着メロにしてましたが、それもだんだん貯まって最新の曲になっていきます。だから届く音源も、テレビやラジオオンエアのモノラルのものばかりになって、「これ、どう耳コピしたらいいの?」ってなりました(笑)。
――なるほど~。
そこで想像力も鍛えられましたね。多分、これはこういう風に弾いているだろうみたいな。それが僕の20代です。講師と着メロ、着うたでめちゃくちゃ忙しくて。その時代はゲームは、メジャーなゲームしか遊んでないですね。ゲームもほとんどがプレステ1と2がメインでした。といってもドラクエやFFシリーズなんかは結構やり込みプレイはしていましたが(笑)。
――年代的にはどれぐらいの期間ですか?
1994年から2004年ですね。
――確かに着メロ全盛期ですね。
最初は3和音からやっていました。3和音もアレンジが必要じゃないですか。ファミコンって3和音だったので、その時にアレンジした経験がファミコンの理解に繋がっています。その後16和音になって32和音になって、最終的に着うたになり、どんどん進化していきました。僕は打ち込みもできるし宅録もできるので、割とそういうのに重宝されて、20代はほとんどそんな仕事ばっかりでしたね。
着メロ作成の流れからゲーム音楽業界への道が開ける
ここからようやくゲームの話になりますが、2003年と2004年に僕が作曲でBGMを提供したゲームがあります。でもそれは、契約で公言はできないんですよ。
――NDA(秘密保持契約)とかがありますからね。
なのでゲーム業界に関わったのは本当はそれが最初でした
――何がきっかけにその仕事の依頼が来たんですか?
当時着メロの仕事で取引していた制作会社がゲーム制作もやっていたんですが、音楽をつくる人が足りなかったみたいで、そこの社長から「作曲はできるの?」と聞かれたので、「一応昔やっていたのでできますよ。ゲームも好きだから、ゲーム音楽は願ったり叶ったりなので、ぜひやらせてください」といいました。そこで初めてゲーム音楽の仕事ができたんですよ。
ちゃんと公言できる話としては、2005年の『NAMCO×CAPCOM』の主題歌でギターを弾いた事です。主題歌を作曲したのはゲーム音楽のレジェンド古代祐三さんで、20代の頃から着メロの仕事を僕にくれていた同い年の友人が古代さんと当時仲良くしていたみたいで、その友人から古代さんを紹介してもらったのです。
その友人は東京に住んでおり、彼の家にレコーディングスタジオもあったので、そこに来て録音して欲しいといわれて。大阪からギターを担いで東京まで行き、『NAMCO×CAPCOM』の主題歌「すばらしき新世界」をレコーディングしたのですが、その時にお会いできたんですよ。
――あ、古代さんにですね。
古代さんとの仕事は初めてだから1回顔合わせしましょうってなって。彼の家に行ってギター弾いて、そこに古代さんも来て、その後3人でご飯食べに行きました。それが、僕と古代さんの初めての出会いでした。
そこからその友人を経由して、何度か古代さんの楽曲に参加しています。2010年にPSPで発売された『クリミナルガールズ』の主題歌でもギターを弾いていますし、2011年にPSPで発売された『セブンスドラゴン2020』でも数曲BGMでギターを弾いています。最初の仕事以外は基本的にその友人を介して古代さんの楽曲が送られてきて僕が宅録でギターを録音してデータをお渡しするというスタイルでした。
――ある意味、理想的な仕事のされ方ですね。
でもその後、その友人は東京から大阪に帰ってしまったんです。
その友人が東京からいなくなって、そこから古代さんとの接点もなくなってしまって。しばらくご縁がなく過ごしていました。
その後2007年~2009年に、ガンバリオンからアニメ『ONE PIECE』のゲーム『ONE PIECE アンリミテッドアドベンチャー』と『ONE PIECE アンリミテッドクルーズ』というシリーズが出ました。そのBGMを作曲して欲しいという依頼が僕に来ました。
この話を持ってきてくださったのが梅野貴和さんでした。僕が東京に出てきてから着メロの仕事を紹介してくださった方で、当時は着メロ制作の中心的な立場にいた人物でもありました。
梅野さんが幅広く音楽制作の仕事を手がけていたこともあり、あるとき「『ONE PIECE』のゲームの作曲の仕事が来ているんだけど、興味があればやってみる?」と声をかけてくださったんです。
こうして参加したのが『ONE PIECE アンリミテッドアドベンチャー』でした。1作目は3人ほどで分業しており、僕は全体の3分の1ほどの楽曲を担当しています。その後、『ONE PIECE アンリミテッドクルーズ』では、梅野さんと僕のふたり体制で音楽制作を担当しました。ゲーム音楽作曲家としては、この作品が僕の代表作といえるかもしれません。
さらにその後は、2010年から2013年にかけて『プロ野球スピリッツ』や『パワフルプロ野球』シリーズの音楽制作にも携わりました。当時、コナミの野球ゲームで音楽制作を担当していたW.M.スタジオの社長と知り合い、その縁から僕もその一員として参加することになったんです。
メインとなる楽曲は社長がほとんど制作していましたが、沢山BGMがあるので僕はその制作を手伝っていました。
――曲がいっぱい必要だったってことですね!
でも1タイトルにつき、1〜3曲ぐらいでしたけどね。
ですのでそれで参加しましたと言うのはおこがましいのですが、スタッフクレジットには一応名前が載っています。
パワプロとプロスピは2010年から2013年の間、毎年制作協力で参加して、そこから派生した『パワプロクンポケット13』や『パワプロゴルフ』にも作曲で参加しております。
コロナ禍をきっかけにYouTubeを始める
そんな感じで2013年ぐらいまでは、ゲーム制作に携わっていました。東京に出てきたのは2006年ですが、ずっとヤマハの先生は続けており、なかなか制作と講師業を並行してやるのが難しく、突発的に来る仕事は受けにくいときもあります。
あと、制作をするということは制作環境を毎回常にアップデートしておかないといけないので、結構維持費が高く付きます。
――プラグインを買うとか、ソフトもアップデートする必要がありますからね。
DAWのアップデートのためにお金をかけてみたいなことがあったので、この維持費と収入がほぼトントンじゃないかみたいな感じになってしまって。
――やる意味あるか微妙なラインですね。
ゲーム好きだったからゲームに関わりたいという気持ちはあったので、それが一番大きなモチベーションでした。ゲームに関わりたいけど生活もあるし、そこは1回切り離そうと思い、2014年を最後にゲーム作る音楽作る仕事は一旦引退しようという感じでやめました。
2014年にLINEゲームの音ゲーがあったんですけど、既存の曲をゲーム用にアレンジしていました。それを最後に完全にゲーム業界からも撤退して、2014年以降はギター講師の仕事に集中してきました。
年も取ってきたし、レッスンの仕事を増やした方が安定するので、そういう安定を求めちゃって2014年以降は講師および執筆活動に専念しました。今に至るまで4冊ほど教則本を出しています。
なんでまた最近になってゲーム業界に絡むようになってきたのかというと、2020年のコロナ禍が始まったのがきっかけでした。僕はその時、ほとんど講師一本だったので。
――活動自体ができなくなっちゃったんですね。
僕の場合が自分の教室でレッスンをやっているわけではないので所属の音楽教室に従うしかなかったのです。
――当時は、個室で人が集まること自体が難しかったですからね。
山野楽器さんの音楽教室がしばらくお休みになってしまって。会社が決めたことですから僕は全くレッスンができなくなっちゃって。
――別にギャラも出るわけでもないし。
出ないですね。2020年の3月から5月までの3ヵ月、完全に職がなくなったんですよ。当時はゲーム音楽の仕事も辞めていたので、9割方収入がその音楽教室からのものでした。これはやばいなとなり、しかも家にいても暇じゃないですか。ライブ活動もできないし、そこでYouTubeを始めました。
――コロナがきっかけだったんですね。
正直、YouTubeって全然興味がなくて、見てもなかったんですよ。YouTubeって、そもそもどんなものかもわかってなかったし、当時既にYouTuberって割と悪いイメージがニュースとかで流れてくるじゃないですか。YouTuberがこんな悪さしました!みたいな感じで(笑)。
――金に物言わせるみたいな感じで!
でも下調べでYouTubeのギタリストを見てたら、みんなちゃんとやっているし教則的なものを出しているし、YouTubeってこんなところだったんだと、改めて知りました。じゃあ、自分もやりましょうとなって。初めは、何をやるか決めてなかったので、ただギター弾こうと思っていました。コロナの休み中に生徒さんに向けて、生徒さんが好きそうな曲を弾いてみた系で。しかも楽譜付きで。
――TAB譜付きですね。
TAB譜の制作も得意だったので、それも活かして自分ができることを詰め込んでやろうと思ってやり始めました。ギター以外にウクレレのレッスンもやっていますので、エレキ、アコギ、ウクレレをまんべんなく生徒さんに向けて動画作っていたんです。
何かで「YouTubeって好きなことをやらないと続かないよ」みたいなことが書かれていたんです。最終的には自分のレッスンの動画を出すつもりだったんですけど。そのレッスン動画を作る練習も兼ねて、自分の好きなことを動画でいろいろとやろうと思い作ったのが、『ゼルダの伝説』をファミコンで鳴っている3音で再現したギター演奏動画です。
――ディスクシステム版のやつですか? 当時はファミコン版の3音と限定していたので、ファミコン版の『ゼルダの伝説1』を買って、耳コピしました。ディスクシステムだともう1音付いちゃうじゃないですか。なので、わざわざそのためにカセットを買って作ったのが初めてのゲーム音楽のギター演奏動画でした。
――3音にこだわって作ったんですね。
最初のゲーム音楽動画は『ゼルダの伝説1』で、全部TAB譜も付いています。それに合わせて、僕が3人ギター弾いているものを上に3つ並べて、下にTAB譜を並べて顔出しもしてなかったんですよね。もちろんコスプレもしていませんでした(笑)。
それがきっかけで、ファミコンの音を完全に再現する動画を出し始めました。アレンジもせずに、本当にファミコンで鳴っている音をそのまま完コピするというコンセプトです。
2020年6月からレッスンを再開できることになったので、「これでYouTube活動も終わりかな」と思っていたんです。ただ、せっかくなら最後に何か爪痕を残したいと考えて、『ゼビウス』のBGMを演奏するだけでなく、効果音まで全てエレキギターで再現した動画を作ることにしました。
ただ、『ゼビウス』の効果音はそのままでは速すぎて演奏できません。そこで音をスロー再生して耳コピし、ゆっくりのテンポで録音したあとに再び速度を上げるという方法を使いました。いわば音の顕微鏡で細部を観察するような感覚ですね。
そうして再現した音を聴いてみたら、「これ、ザッパーの音そのままじゃん!」となって(笑)。自分でも面白いものができたと思い、「これを最後の作品にしてYouTubeをやめよう」と考えて、5月下旬に動画を公開しました。
すると、その動画がPC Watchの「やじうまPC Watch」に取り上げられたんです。
●ファミコン版ゼビウスの音をエレキギターで完全再現した動画
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/yajiuma/1255158.html
僕の生徒が「先生のゼビウスの動画がすごくバズってニュースになっていますよ」って教えてくれて。何それ?ってなって見に行ったら、記事にしてくれていたんです。しかも、それがYahoo!ニュースでも取り上げていたんです。
――PC WatchだとYahoo!ニュースとも連携していますからね。
気づいたら、前の日までYouTubeの登録者が500人だったのが、5,000人になっていて。収益化できる条件もクリアしていました。これはちょっとYouTubeはやめられませんな、みたいな(笑)。
その『セビウス』の動画のバズりがあったから、その後も続けたって感じです。でも、だんだんファミコンの完コピができるネタがなくなってきたんですよね。ファミコンのBGMって、めちゃくちゃ速い音もあるじゃないですか。
僕の当時のコンセプトはファミコンで鳴ってる音を全て完コピで弾くことです。
ファミコンの音って、ベースのパートのところに急に違う音がピョっと入ったりして、物理的に弾けないものもあります。あと、テンポの問題で人間が弾ける速さではないなど、だんだん完コピできるタイトルがなくなってきたんですよね。あったとしても、超マイナータイトルとか。
――誰も知らねーってなりますね。
それで伴奏はバンドアレンジして、メロディをギターで自由に弾くというスタイルになってきました。コスプレの評判も良かったので、「コスプレしてファミコンの音楽をカバーする人」みたいな今の位置づけになったんですよね。
――今、1本の動画を作るのにどれくらい時間かけているんですか?
まず、耳コピをするところからなんですけど。昔は耳コピだったんですよ。ゲームのカセットを買って起動して、BGMがなっている間、何も操作しないで録音するみたいな感じでやっていました。
だんだんいろんな情報を知るようになって、買ってきたゲームをPCに吸い出せることが分かったんです。ただ、ゲームのカセットを持ってないと違法になっちゃうので。そこは徹底しており、自分でカセットを所有してないものはしないようにしています。PCに吸い出したROMデータを、ツールで音楽データだけ抜き出すことができるんです。
――ああ、そんなのがあるんですか。
その音楽データを取り出したものを、専用のプレイヤーで1音ずつ聴くことができるんです。それで一個一個の音を分離できるようになりました。
――じゃあ、耳コピがはすごくやりやすいですね。
それでもうめちゃくちゃ楽になりました。なおかつ、今はDAWの方で取り込んだそのデータそのものを、MIDI化することもできます。ただ、本当に合っているかどうかちゃんと耳で確認する必要はあるので、最終的には自分の耳でチェックしています。
――なるほど。その作業とそのアレンジの作業で1日6時間作業したとしたら、2日はかかりますね。
耳コピから始まってオケを作って、ギターを演奏する。12時間は最低かかるし、もちろん長いのはもっとかかる時もありますが、それをやった上でゲーム映像も動画に載せるのでゲームもプレイするんですよ。
カバーするゲームはできるだけ最後までクリアして、その上で「このゲームはこれが面白かったからこれをネタにしよう」とか、例えば『忍者ハットリくん』だったらボーナスステージでお父さんがちくわに紛れて鉄アレイを投げてくるのは有名じゃないですか。
だから、自分の動画の最後に、鉄アレイにぶつかってコケるというシーンを入れたり、あとは『忍者ハットリくん』だと高橋名人が隠しキャラで出てきますが、それが当時としては難しくてできなかったのをチャレンジして、その映像を演奏している背景に使ったり、僕はゲーマーでもあるので、音楽だけではなく、ゲームも楽しんでいます。そのゲームプレイにも結構時間がかかるんですよね(笑)。
――まぁまぁ手間暇かかりますね。
それにプラスして、コスプレして演奏してという撮影が2時間くらいはかかるので、まるまる24時間以上は掛かっていますね。
――それをさらに編集しなきゃいけないですからね。
編集も結構時間かかるので、1本の動画に30時間くらいかけてやっているんですよ。
――今はどれぐらいのペースで動画を出しているんですか?
月に2本ぐらいしか出せてないですね。
――でしょうね(笑)。
そうした活動をしていると、昔僕が遊んでいたゲームの作曲者の方が僕の動画を見つけてくれて、これ面白いじゃんみたいな感じで見てくださる事もあるんです。『ファンタジーゾーン』だったら、Hiro師匠本人が僕の動画にコメントくれたり。ご自身のXでも僕の動画を貼ってくださっていました。
他にも『忍者ハットリくん』の国本剛章さんは、僕の動画を観てご自身のブログで取り上げてくださったり、僕とSNSを通じて繋がってくださるという、子供の時からすると夢のようなことが起きたんです。
――時代が追いついてきている感がありますね。
その中のひとりが、古代さんだったんです。確か僕の方からXでフォローしたと思いますが、超有名人だからめったなことでフォローバックされないと思いますが、一応「昔、古代さんの曲でギター弾いた者です」と挨拶しておこうと思ってDMを送らせていただいたんです。
そうしたら覚えてくださっていて、フォローバックもしてもらい「共通の知り合いだった彼は今どうされたんですか?」と質問があったので、「彼は大阪に帰っちゃったんですよ」とお返事しました。
元々その彼を通じての付き合いだったので、そこから疎遠になっていましたが、「これを機会にまた何かあったらよろしくお願いしますね」というやりとりを、Xでしたのが、古代さんとの接点の復帰になります。
社交辞令みたいな感じで言って下さっていると思っていたんですが、現在『湾岸ミッドナイト』の新作アーケードゲームを開発中なんですが、その曲のギターを僕に弾いてほしいとDMが来て。「え!? 僕でいいんですか?」って思いました。ま、それは言わなかったんですけどね(笑)。
結構な曲数参加しています。リリース時期とか詳細は何も言えませんけどね。
――おお、ガッツリ参加されてるんですね!
そういう事もあり、それをきっかけにゲーム業界にまた戻りたいと思っています。作曲活動はやめていますが求められることがあれば作曲でも積極的にゲーム業界に関われるようになりたいですね。
最近ですと昨年発売された『バウンティシスターズ』でギター演奏で参加させてもらいました。この作品は、『グラディウス』の作曲家として知られる東野美紀さんがゲーム業界に復帰される事になったゲームでもあるんです
東野さんと面識はなかったのですが、以前YouTubeで『グラディウス』のBGMは、アーケード版とファミコン版でメロディが違う」という検証動画を公開していましたが、ご縁があって、東野さんご本人がその動画の謎に関して回答してくださったんです。
そこで御本人の許可を頂いた上でアンサー動画を作らせてもらいました。
そんな接点から始まったご縁ですが、まさか僕が東野美紀さんの楽曲でギターを弾けるなんて子供の頃は夢にも思ってなかったですよ!
Youtubeをやってて良かったなあって思いました(笑)。
――ジャーニーのボーカリストみたいですね。
といいますと?
――今のボーカルは、ニール・ショーンがYouTubeで見つけた人なんです(笑)。
今時ですよね!僕はYouTubeは本当に趣味でやっています。全然儲からないですよ、儲かるどころか赤字ですからね。でもそれがこうやってゲーム業界との接点になったので、僕はYouTubeをやっていて良かったなと思います。僕が憧れていた作曲家やゲームクリエイターたちと繋がれるのが、今の一番の楽しみであり喜びですね!
――本日はありがとうございました!














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