ピピンが売れなかったのはアップル内部の人事とSystem 7の出来の悪さが原因だった!? 黒川塾59「世界一売れなかったゲームハード ピピンアットマーク! アップル&バンダイの真実」イベントレポート

ピピンが売れなかったのはアップル内部の人事とSystem 7の出来の悪さが原因だった!? 黒川塾59「世界一売れなかったゲームハード ピピンアットマーク! アップル&バンダイの真実」イベントレポート

2020年5月30日に、メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏が主催するトークセッション「黒川塾76」がOPENREC.tvで開催された。通常はオフラインで開催されている黒川塾だが、新型コロナウィルスの影響もイベント自体を実施するのが難しい状況が続いている。そこで今回は、初の試みとしてオンラインでの配信開催となった。

今回ゲストとして登壇したのは、主催の黒川氏とまったく同姓同名のエフツウ 代表取締役の黒川文雄氏。テーマは、「世界一売れなかったゲームハード ピピンアットマーク!」アップル&バンダイの真実だ。

ピピンが売れなかったのはアップル内部の人事とSystem 7の出来の悪さが原因だった!? 黒川塾59「世界一売れなかったゲームハード ピピンアットマーク! アップル&バンダイの真実」イベントレポート
▲写真左が黒川塾を主催するメディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏で、写真右が今回のゲストであるエフツウ 代表取締役の黒川文雄氏。

3号で終わったしまった雑紙がきっかけでバンダイと関わることに

ゲストの黒川氏は、学生時代に『ぴあ』という雑紙の創刊に関わり、そのなかで「PFF(ぴあフィルムフェスティバル)」をプロデュースしてきたという経歴を持つ。バンダイと関わることになるきっかけは、黒川氏が携わった『CALENDER』という雑紙に、バンダイに広告を出稿してもらったことからだったという。

この雑紙自体は3号で終わってしまったのだが、そのときバンダイと交わしていた契約は年間契約だったため謝罪にいったところ、当時の広告部長に「これからバンダイは、映像事業をいろいろとやるので無償でビデオ事業のコンサルタントをやってほいしい」といわれ、ぴあにいながら手伝いをしていた。

日本初のビデオレンタルショップ「トップテン」の事業から関わることになるのだが、この当時日本の法律ではまだレンタルビデオは解禁されていなかった。しかしアメリカでは異なる法律になっており、1度購入したものはレンタルしようが何しようがいいというものになっていた。

青山と六本木に店舗を作ったのだが、アメリカ映画協会(MPAA)から訴えられてしまう。様々な解釈を巡り裁判を行ったものの、結果的に敗訴となった。しかし、それがきっかけで日本でもビデオレンタルがOKという状況が生まれることになったのである。

そのときに、名前を「トップテン」から「Emotion」に変更。日本ビデオ協会の公認1号店になった。ビデオレンタル店が増えていくことを予想したバンダイだったが、まだまだソフトの数が少なかった。そこで、店舗の運営よりも映像産業に進出することになり、様々な映像作品を出し始めていった。それが現在のバンダイビジュアルのスタートとなったのだ。

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映像から始まった黒川氏のコンサルだったが、その後、マルチメディアの分野に変わっていくことになる。1990年代前半は、PCにCD-ROMドライブが搭載され始めた頃で、大容量のメディアを活かして、それまでは難しかった映像などの盛り込んだコンテンツが人気を呼んでいた。

そうしたものをいわゆる「マルチメディア」といわれていたのだが、黒川氏はバンダイの件とは関係なくMacintosh向けに発売されていた『スペースシップ・ワーロック』や『ヘルキャブ』といったマルチメディアタイトルを出していたのだが、徐々に規模が大きくなってきたためバンダイに一緒にやりませんかと声をかけた。そして、それが今回の主題である『ピピン・アットマーク』のスタートに繋がることとなる。

My first Macとしてアップルに企画を提案

バンダイが最初にアップルにピピンの企画を提案したのは、「My first Mac」としてだった。これは、子供をターゲットにMacintoshのインターフェイスに慣れさせてしまうことで、一生離れないだろうといった戦略から生まれたものだ。それを、当時アップルコンピュータの上級副社長だったイアン・W・ダイアリー氏に当時のバンダイ社長だった山科誠氏が自ら直接プレゼンを行っている。

ちなみに、なぜ山科氏が直接交渉したのかというと英語が話せたからだという。

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▲この当時の『ピピン・アットマーク』を巡る環境。

『セガvs.任天堂 ゲームの未来を変えた覇権戦争』にも登場するトム・カリンスキー氏(のちのセガ・オブ・アメリカのCEO)は、インテレビジョンの後にマテルの社長の座に着いた。そのきっかけのひとつが、『マジンガーZ』をアメリカで大成功させたことだった。

図を見てもわかるように、当時のゲーム機は群雄割拠の時代で、1994年に『セガサターン』や『PlayStation』という第5世代のゲーム機がが登場する時代でもあった。またこの時代は、ゲーム機にモトローラーの6800とインテル8080の、どちらのCPUを採用するかというのも、ひとつの戦略となっていた。

安かったのはモトローラーのクローン的な「MOS 6502」というCPUで、『ファミコン』(MOS 6502をベースにリコーがカスタマイズしたもの)や『Apple II』にも採用されていた。スティーブ・ウォズニアックが『Apple II』にこのCPUを選んだのは、単に「一番安かったから」というのが理由だ。

この当時のバンダイは、海外で『パワーレンジャー』が大ヒットとなり海外進出を果たしている。映像ビジネスでは、それまでポニーキャニオンが扱ってきたディズニー作品の販売権を獲得している。映画ビジネスでは、ガイナックスや北野武監督、押井守監督、大友克洋監督などの作品も手がけている。

このように、おもちゃの世界にとどまらずエンターテイメントの世界を広げていったというのが、当時のバンダイだったのだ。そこで足りなかったのがゲームで、セガとの合併を目指したが、こちらはご存じのように頓挫してしまった。

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バンダイビジュアルから生まれたピピンのプロジェクト

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ピピンのプロジェクトがスタートしたのは、バンダイビジュアルからだった。当時、渡辺繁氏と鵜之澤伸氏がやっていたが、ピピンのプロジェクトを立ち上げるときに鵜之澤氏がバンダイ・デジタル・エンタテインメントに移動して、社長に就任している。

黒川氏は、鵜之澤氏のところへ年末の挨拶にいったのだが、その場に山科氏もいた。山科氏から、その当時バンダイから発売されていたマルチメディアタイトルに対して「こういうのを、Macintoshがなくてもかける方法はないのか?」という相談を受け、「できますよ」といってしまったという。

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▲バンダイビジュアルから発売されていたマルチメディアタイトル。

こちらには根拠があり、東芝がアップルと極秘で「KALEIDA」というOSを使い、CD-ROMプレイヤーを開発していた。その当時東芝の責任者だったのは、のちにDVD規格を立ち上げた“ミスターDVD”こと長谷亙二氏だった。年末に鵜之澤氏のところへ挨拶に行く1週間程前に、長谷氏に呼ばれて「アップルとの話しが潰れた」と聞かされる。

東芝は『ポパイ』『オリーブ』『ブルート』というマルチメディア・プレイヤー『SweetPEA』を作ったのだが、OSが完成したら動かず、結局そのまま頓挫してしまったのである。長谷氏に呼ばれた飲み会の席で、黒川氏は「KALEIDA OSじゃなくてMac OSなら動くんじゃないですか?」という話しをしており、そのことが頭にあって山科氏に先ほどのような返事をしたのだ。

山科氏にその話をしている場から長谷氏に電話をかけ、アップルを紹介してもらうことになった。そして新年早々、アポが取れたことから山科氏がアップル本社に直接プレゼンしに行ったのである。このとき黒川氏自身は渡米せず、社員でのちにディースリー・パブリッシャーの社長になる伊藤裕二氏が同行している。

その時にあったのは、ガストン・バスティアン氏でジョン・スカリー氏が鳴り物入りでフィリップスからヘッドハンティングしたミスターCDiといった人物である。その帰りがけに、アップル内の人物から「バスティアンと話していてもダメです。サジーブ・チャヒルというインド人とコンタクトを取らないとダメですよ」と教えられる。

帰国後、一緒に行かなかったこと山科氏に怒られた黒川氏だったが、訪問先が間違っていたことを伝え、すぐにチャヒル氏に連絡を取っている。そこですぐにチャヒルが担当を付けてた。そのときの人物が、エリック・サーキン氏であった。すぐに来日したエリック氏は、黒川氏は会食を行っている。

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ジョブズ不在の12年間はアップルは危機に瀕していた

当時のアップルは、いろんなことに手を出しすぎて財務的にも厳しい状況だった。新たなOSを作っていくことで、IBMと協力しながら「PowerPC」というCPUの開発も行っていた。インテルとマイクロソフトの“ウィンテル軍団”が追いかけてきている状況もあり、焦っていた。そのときに、OSをライセンスすべきかどうかということも検討され始めたときでもあった。

エリック・サーキン氏は、この当時日本でOSをあちらこちらで売ろうと考えていた。家電などでもOSは使われているが、Macintoshで使われていたOSは不安定であったためなかなか売れなかった。そのタイミングで、ピピンの話しがきたというわけである。

自分を雇ったジョブズ氏を追い出したジョン・スカリー氏はすでにおらず、マイケル・スピンドラー氏とその次のギル・アメリオ氏がアップルの指揮をとっていた。

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▲スティーブ・ジョブズ氏不在の12年間は、アップルは迷走していた。
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▲当時のアップルの組織図。実質的に社長的な役割を果たしていたのが、イアン・W・ダイアリー氏だ。

このとき黒川氏は、日本のMac OSの代理人として契約を行っている。後にアップルは、Mac OSをパワーコンピューティングなどにライセンスして互換機が発売されたこともあったが、それでは自分たちの事業とバッティングしてしまう。そこで、まずは子供たちが遊ぶ機種などにライセンスして、重ならない分野に広げていこうとしていたのだ。

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▲ライセンスはピピンとしてではなく、Mac OSとしてだった。個人でMac OSのライセンスを持つのは黒川氏だけかもしれない。

日本ではパイオニアからMac OSをラインセンスした互換機が発売されたが、実はライセンス1号はバンダイだったのだ。ピピンは半年以上発売が遅れてしまったのがだが、それはMac OSとして採用されていたSystem 7に大きな問題があったのが原因であった。

ピピンの失敗はアップル側の責任も大きかった

よく「世界で一番売れなかったゲーム機」や「バンダイはアップルにだまされた」などと揶揄されることの多い『ピピン・アットマーク』だが、黒川氏はバンダイの名誉のためにアップルコンピュータ側にもその責任はあると力説する。アップルもこのピピンプロジェクトを、OSライセンスの柱として考えていたのだ。

その足かせのひとつとなっていたのが、Sysytem 7である。1991年5月13日にリリースされたSysytem 7だったが、その後細かなバージョンをアップを繰り返していくにつれて、だんだんその内部はスパゲッティ状態になり、複雑化していった。そのため、なかなかピピンのOSを作ることができなかったのだ。

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1996年3月28日に発売された『ピピン・アットマーク』だが、先ほども述べたように一番の難問だったのはOSの問題であった。最初にピピン向けOSを開発していたチームを、エリック・サーキン氏が解散させて、急遽新たなチームに切り替えている。一部ではストライキだったという話しもあるが、エリック氏によるとあくまでもSystem 7の出来の悪さが問題となっていたようだ。

『ピピン・アットマーク』は、すでに使われていたPowerPC601ではなく、新たに開発された廉価版CPUのPowerPC603が採用されていた。ピピンは内部にハードディスクなどのストレージは搭載されていなかった。これは、Mac OSが不安定であったことから組み込むのをやめて、CD-ROMの中にOSを組み込むブートOSという方式を採用したからであった。

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ブートOSを採用した理由はもうひとつあり、ハードウェアが儲からなくてもソフトウェアのライセンスで儲けることができるからだ。ピピンで動かすときにブートOSにしておくと、その権利はバンダイが持つことができるのである。

よく勘違いされることがあるが、ピピンで動くソフトはMacintoshでも動かせることができる(その逆はプロテクトがあり対応ソフト以外は不可)。これは上位互換があるからだが、基本的にはこれが大原則となっている。

開発段階では、Macintosh LC520のようなスペックを想定していた。このときは、まだブートOSにすることは決定されていない。

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ピピンの設計段階では、CPUのPowerPC603は、まだバグもフィックスしておらず契約時点では別の名前になっていたほどである。元々東芝がピピンのハードを開発する予定だったのだが、途中で逃げられてしまった。東芝のチーム全体がDVDを作っていたということもあり、そちらに集約するために降りたのであろうと黒川氏は推測する

結果的に三菱電機がメインで開発を行うことになり、そのほかのジョイスティックなどをホシデンが担当することになった。ホシデンが関わることになった経緯は、エリック氏からの要望があったからだ。どうやら、FireWire関連でホシデンに迷惑をかけたことから参加してもらったようである。また、バンダイと長い付き合いのある加賀電子にも参加してもらっている。

三菱電機はセガがらみでいろいろとあったことから加賀電子の参加を嫌がっていたようだが、結果的にはうまくやってもらったそうだ。『ピピン・アットマーク』はこうした経緯からもわかるように、そもそもゲーム機として開発されたものではない。ゲーム機は、あるゲームを遊びたいからそのハードを買うというのがモチベーションとなる。しかし『ピピン・アットマーク』の場合は、パソコンのようになんでもできることをコンセプトに作られたものだったのだ。

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そして誰もいなくなった

ピピンが動き出すきっかけとなったのは、アップルのサジーブ・チャヒル氏と連絡を取ってからだが、同氏は映画のタイアップなども強力に推進している。たとえば『インディペンデンス・デイ』のラスト、大統領が宇宙船に近づいてMacBookからコンピュータウィルスを送り込んでやっつけるという、いったいどんなシステムだったんだよという突っ込みを入れたくなる場面が出てくるが、それも彼の功績のひとつだ。

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もうひとりのキーマンであるエリック・サーキン氏は、OSライセンスの構想を考えていた。これを、このコンソシアムを作り実行しようとしていたのだ。

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▲エリック氏が構想していたピピンのロードマップ。

アップルとバンダイが正式な契約を結んだ半年後に、イアン・W・ダイアリー氏がすべての仕事から外されて辞めしまう。これはスピンドラー氏が、なんでもダイアリー氏がやっていることが気に食わなかったことが原因といわれている。

そのスピンドラー氏も直後に辞め、ギルバート・アメリオ氏に社長が変わる。アメリオ氏は普通の会社の社長には向いているが、アップルのように個人が好き勝手にやっているような文化とはまったく合わなかった。

そうして、アメリオ氏が社長になったあとでエリック氏に組織図を送ってもらったところ、ピピンに関わっていたメンバーがバラバラに配属されていたのだ。

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▲ピピンの担当者が、バラバラに配置されてしまう。

新たな組織に変わりすぐに、エリック氏の上司になったKai Fu Lee氏(現在中国でAIの第一人者として活躍)も辞めてしまう。さらにその2週間後には、その上司のデビット・ネーゲル氏も退社してしまった。こうして人がどんどんいなくなり、残ったのはサジーブ氏とエリック氏のみとなったのだ。その後、このふたりも辞めてしまい、アップルからはピピンに関わっていた人物は誰もいなくなってしまう。

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綺麗がウリのマルチメディアはテレビで見るとイマイチだった

Sysytem 7の状況もひどく、時期OSとして開発していたCoplandも上手く進まず、BeOSかNext Stepを買収して新たなOSにしようか考え、ジョブズのNext Stepを選ぶと、それを買収した人間もすぐに辞めていくといった当時のアップル。多くの人々が関わり辞めていったが、ジョブズが復帰した途端、再び息を吹き返し、現在までの地位を築いていくことになる。

当時はブラウン管の時代だったが、PCのディスプレイに採用されていたプログレッシブと比較して家庭用ゲーム機で一般的だったインターレスのテレビでは、映像に大きな違いが生まれてしまっていた。たとえば『Myst』などの大ヒットマルチメディアタイトルは、PCで見ると美しいが普通のテレビで見るといまひとつの映像に見えてしまう。

CD-ROMを利用したマルチメディアのビジネスは、「絵が綺麗」ということをウリにしていたのだが、テレビではあまり綺麗に見えなかったのである。この部分に関しては、計算されてなかったと黒川氏はいう。

先ほども触れたが、ピピンのソフトにはラベルが貼られており、Macintoshでも動くモノに関してはオレンジ色のラベルが貼られており、ピピン専用のタイトルには緑色のラベルが貼られている。そのため、Mac OSとピピンは別物という印象が持たれてしまっているが、実は同じOSで動かすことができるのだ。

このように、ソフト戦略がやや間違っていたと黒川氏は語る。

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▲S・パールマンがアップルでピピンと似たコンセプトのものを作っており、そちらがベースになって開発が進んだ。
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▲VGA端子も付けられており、綺麗に映し出すこともできるがあまり利用している人はいなかった。ちなみにこの写真に映っているピピン本体は、当サイトで以前紹介したものを今回のイベント用にお貸ししたものである。

マーク・アンドリーセンがMosaicを設立したのは1994年で、まだまだインターネット自体が黎明期の頃だった。日本でも1994年あたりから徐々に家庭でも接続できる環境が増えていったが、当時はダイアルアップ方式で、繋ぎ放題のブロードバンドが普及するのはさらに数年後の2001年あたりからである。

『ピピン・アットマーク』はコンセプトはよかったものの、やや時代が早すぎた感もある。また、アップルの中の人事の問題もあり、誰と話せばいいのかわからなくなってしまった。そこにSystem 7などのOSの問題も重なり、歯車が悪い方向で重なってしまったようだ。

編集/記事作成:高島おしゃむ

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高島おしゃむ
ライター/編集者。コンピューターホビー雑誌「ログイン」の編集者を経て、1999年よりフリーに。 現在はゲームやホビー、IT、XR系のメディアを中心に、イベント取材やインタビュー、レビュー、コラム記事などを執筆しています。