『ドラゴンクエスト』を作った男たち【レトロゲーム調査隊】

『ドラゴンクエスト』を作った男たち【レトロゲーム調査隊】

1986年5月27日。その後、数多くの作品に影響を与えることになったゲームがファミコン用ソフトして発売された。そのタイトルの名は『ドラゴンクエスト』。日本国内の売上本数は150万本。ファミコン販売台数は、その当時1000万台近くまで普及していたため、6人にひとり近くは本作を持っていたことになる。

当時のROM容量はわずか64キロバイトだったが、そこには大きな夢が詰まっていた――。

『ドラクエ』を生み出した名プロデューサー・千田幸信氏

ドラクエといえば、真っ先に思い浮かべるのが“生みの親”として知られる堀井雄二氏だ。または、キャラクターデザインを担当した鳥山明氏や音楽を担当したすぎやまこういち氏、ディレクターの中村光一氏を思いかべるひともいるかもしれない。

しかし、本作は千田幸信氏というプロデューサーがいてからこそ生まれた作品である。

当時のエニックス常務取締役だった千田幸信氏は、『ドラクエ』シリーズの1~7作目を手がけた名プロデューサーだ。以降も、MMORPGの『ドラゴンクエストX』を除き11作目の『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』まではエグゼクティブプロデューサーとして名を連ねている。ちなみにエニックスとは、最初のコンピューターであるENIACと不死鳥のPhoenixを掛け合わせた言葉である。

堀井雄司氏が作ったアドベンチャーゲーム『ポートピア連続殺人事件』の売れ行きが好調だったことから、パソコンゲームの流れがそれまでのアクションゲームが主体の物からアドベンチャーゲームなどの新しい流れに移りつつあると感じていた千田幸信氏。そこで、1983年11月に、堀井雄司氏や中村光一氏など当時の優秀なプログラマーたちを引き連れて、米国サンフランシスコ州で開催されていたパソコンの展示会イベント「アップルフェスト」の視察を行っている。

その会場で出会ったのが、当時アメリカで大ヒットしていたRPG『ウィザードリィ』である。

当時日本では1983年7月15日に、任天堂から発売された家庭用ゲーム機『ファミリーコンピュータ』(通称ファミコン)が大ヒットを飛ばしていた。まだゲーム専用ショップなどはない時代で、筆者も東京駅の大丸など大手百貨店を散々見て回ったが、手に入れるのに苦労した記憶がある。友人などは、あまり売れていなかった『ファミリーコンピュータ ロボット』との抱き合わせでようやく購入できるという状況だったようだ。

そうしたことから、エニックスでもファミコンソフトの開発に全力を入れることになる。 中村光一氏 の『ドアドア』をファミコンに移植した作品も好調だったが、当時のファミコンソフトの多くはアクションゲームが主体だった。

新しいゲームを作りたいと考えていた千田幸信氏が出した答えは、『ポートピア連続殺人事件』の移植だ。ゲーム機で文字を読むという文化がまだファミコンにない。そこで、RPGの前にアドベンチャーゲームを出すことで、ユーザーに文字で情報を読み取り判断してもらうということを覚えてもらおうとしたのである。

『ポートピア』ならファミコンに移植できると考えた 中村光一氏 だったが、キーボードが標準で付いていないファミコンで文字を入力できないことに悩んでいた。当時パソコンで発売されていたアドベンチャーゲームは、ユーザーが自らコマンドをキーボードで打ち込み入力していたのである。

同様のことはファミコンでもできないわけではないが、面倒すぎて遊ぶユーザーがいない。そのときに堀井雄司氏が提示したのが、コマンド選択方式だ。わざわざ文字を打つ必要もなく、コントローラーでも簡単に選択できるというわけである。

エニックスのファミコンソフト第2弾として発売された『ポートピア』は、売上70万本という大ヒットだった。実は筆者もこの『ポートピア』は購入していたのだが、実は当時『ドラクエ』は発売されていたことすら知らなかった。

そのヒットから次も同様のアドベンチャーゲームを押す声があったが、千田幸信氏が選択したのはファミコン用RPGの開発である。

1985年12月。堀井雄司氏と、『ドラゴンボール』や『Dr.スランプ』で知られる漫画化の鳥山明氏。その担当者の鳥嶋和彦氏、中村光一氏などの顔ぶれが集まり、エニックスの企画会議が行われている。そこで目指したのが、世界一のゲームソフトだった。

『ドラクエ』の生みの親・堀井雄司氏

フリーライターとして活動していた堀井氏がパソコンに興味を持ったのは27歳のとき。お正月に新聞の記事に掲載されていたマイコン特集がきっかけだった。仕事で使えると思いパソコンを購入した堀井氏。ベーシックなどのプログラミング言語を覚え、半年ほど掛けて作られたのが『ラブマッチテニス』というテニスゲームだ。

少年ジャンプエニックスが募集していた「第一回ゲーム・ホビープログラムコンテンスト」に、この『ラブマッチテニス』の取材依頼を受けた堀井氏。もらった資料の中に応募用紙も入っており、軽い気持ちについでに自分が作ったゲームのプログラムも応募していた。

コンテストの発表会場にいったところ、入賞作品の中に自分が作った『ラブマッチテニス』を見つけて、「そのゲーム、僕がつくったんです」といったところ担当者に驚かれたという場面もあった。ちなみにそのコンテストに同じく入賞していたのが、天才プログラマーの中村光一氏だった。

エニックスより次回作の依頼を受けた堀井氏。海外でアドベンチャーゲームと呼ばれるものが存在していることを雑紙の記事で知っていたものの、何もかも知っている自分が遊んでも面白くない。そこで、エニックスの依頼が助け船となり名作アドベンチャーゲームの『ポートピア連続殺人事件』が生まれている。

その後、創刊したばかりのPCホビー雑紙『ログイン』の取材をきかっけに、同じくアドベンチャーゲームの『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』も生まれることとなった。

エニックスが、ファミコン向けに世界一のゲームソフトを目指してRPGを作ることが決まった後、どういう内容か悩んだ堀井氏。そこで出した答えが、中世ヨーロッパを舞台に剣と魔法で戦う、ファンタジーな世界観だった。今でこそ王道RPGとも言われることの多いスタイルだが、これがその後のシリーズ化や大ヒットにも繋がることになる。

『ドラゴンクエスト』と名付けられた本作だが、もうひとつ挑戦したのが戦闘シーンであった。これまでのアクションが主体だったファミコン向けのゲームで、あえてメッセージのみで戦闘のやりとりを表現することにしたのである。RPGはその名の通り、「ロールプレイング(役割を演じる)ゲーム」である。大元はテーブルトークRPGと呼ばれるアナログなゲームから発生したものだが、それらはユーザーの想像力も要素のひとつとなっていた。

そこであえて戦闘をテキストのみにすることで、ユーザーの想像力がかき立てられるようにしたのである。

天才プログラマー・中村光一氏

「第一回ゲーム・ホビープログラムコンテンスト」に『ドアドア』で応募し、準優勝にあたる優秀プログラム賞を受賞した中村光一氏。ファミコン版『ポートピア連続殺人事件』の移植に続き、参加したプロジェクトが『ドラゴンクエスト』だった。

『ドラゴンクエスト』は、フィールドは『ウルティマ』から戦闘モードは『ウィザードリィ』から、それぞれのスタイルの良いとこ取りをするという形で作られることになったのだが、当初はやや『ウルティマ』よりの地味なゲーム画面になっていた。そこで採用したのが、「マルチウインドウシステム」である。当時のビジネスソフトや、パソコンで発売されていたRPG『ハイドライドII』に採用されていたものだっが、これが『ドラゴンクエスト』との相性が良く、作品の個性を際立たせることになる。

ちなみにステータス表示はいらないという意見もあったが、千田幸信氏がレベル表示は必須という意見を出し、採用されることになった。これまでのパソコンゲームは、あくまでもひとりだけで遊ぶことを前提に作られていた。しかし、ファミコンは家庭でみんなが集まっているなかで遊ばれることが多い。そのときに、レベルが見られるようにすることでアドバイスができるなど、コミュニケーションができるようにということも意識したからである。

鳥山明氏のキャラクターデザインも仕上がり、発売を予定していた1986年2月まであとわずかと迫っていた1月。ゲーム音楽を作曲家のすぎやまこういち氏に依頼するという千田幸信氏と 中村光一氏 は、それぞれ異なる主張で対立することになる。中村光一氏がこだわったのは、ゲームを知らない人にゲーム音楽は作れないというものだった。すでにこのときサウンドプロデューサーに、本作のゲーム音楽を作ってもらっていたというのも理由のひとつだったようだ。

実際にすぎやまこういち氏と会った中村光一氏は、すぎやま氏がゲームマニアであることに驚く。また、 すぎやまこういち氏が考えるゲーム音楽はレコードのヒット曲とは異なり、地味でも何回来ても飽きない曲でなくてはならないという意見に賛同し、楽曲制作を依頼することになった。

一端ゲームが完成した後も、苦労は続く。実際にゲームをプレイしてみると、レベル2に上がるのに、20回も戦闘を行う必要があるのが大変だということがわかった。なるべくゲームの面白さに早く気付いてもらうために、最初のレベルアップに必要な経験値を20から7に引き下げている。

また、当初はゲームのスタート地点はラダトームの城とラダトームの町の中間だった。しかし、子供のテストプレイですぐに死んでしまうことがあり、王様の部屋に変更されている。また、ここで一通りのコマンドの使いかが覚えられる、チュートリアル的な内容に変更されることになった。

その後『ドラゴンクエスト』は、 シリーズ累計出荷数と配信数は7800万本(2019年時点)を記録するほどのビッグIPとなり、今も新作が作り続けられている。ナンバリングタイトルがいつまで発売されるかは不明だが、今後も多くのファンを魅了していくことは間違いなさそうだ。

■参考文献
・Entertainment Meister – Vol.2 堀井 雄二 インタビュー | 文化庁メディア芸術プラザ

・マンガドラゴンクエストへの道 (ドラクエコミックス) /滝沢ひろゆき (著)/1990年2月発売

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高島おしゃむ
ライター/編集者。コンピューターホビー雑誌「ログイン」の編集者を経て、1999年よりフリーに。 現在はゲームやホビー、IT、XR系のメディアを中心に、イベント取材やインタビュー、レビュー、コラム記事などを執筆しています。